ある多言語学習者の断想

ohne Fleiß kein Preis.

今日のドイツ語学習 17.9.2018

『まいにちドイツ語』を聴く

祝日ではあるが、これに合わせて起きる。7:00〜7:15。これにより、いいリズムを得られる。休みも有意義に過ごせる。習慣が人を作る、は本当なのか。

 

『ドイツ語で世界を読み解く』を進める

この本がだいぶ自分に馴染んできた。馴染んできたというのは、「こういうところが勘所だな」というポイントが分かってくる状況のことで、やっていて捗る感覚がある。これも醍醐味の一つ。280ページ中残り100ページ程。

 

言語に関わらず「世界を読み解きたい」そんなニーズがあるとした時、私たちは日本人なのでまず日本語で世界を読んでいけばいいではないか、という考えに至るようにも思う。

それはそれで上手くいくこともあるだろうが、そこには常に既に日本的な視点が介在してしまう。それを、取り除くためには別言語のメディアが発信する世界についての記述にふれるのが有効だ。英語でもいい、フランス語でもいいだろう。そんな中私はたまたまドイツ語を学んでいて、それを通じて読み解かんとしている。主体的に選択したこの「ツール」が自分に何をもたらすのか。

 

さて、自分のドイツ語に関する状況を見るに、

  1. 割と基礎的な語彙も落としている、抑えられていない、取りこぼしあり
  2. 相変わらず、発信力が乏しい

と感じる。

1.について。

辞書の中で、重要な単語は太字で目立つように表記されている。そういうものに未だ出くわすことがある。まあ、そこそこ分かる単語でも意識的に辞書に当たっているという面はあるが。

各項目の下のほうには慣用句や熟語が載っている。そういうものを極力習得したい。

 

2.について。

正直、後回しになっている。何か新しい手法なり、習慣的な取り組みを案出したいところ。

 

「転じて」

「転じて」という日本語の表現がある。

これが好きなのである。元々は歴史的に別の使われ方をしていたのだが、やがてそれが「転じて」別の意味合いで用いられる。

「ブログを書く」という今多くの人が行なっている現象も数十年後には転じて、例えば“一般の人が自由に表現すること”のような意味をまとうかもしれない。

きっとこうやって、長い時間を費やして言葉に習俗が住み着くのだろう。