ある多言語学習者の断想

ohne Fleiß kein Preis.

今日のドイツ語学習 24.8.2018

『まいにちドイツ語』を聴く

今日は札幌についての「雑誌記事」。

「受動の表現」が特集されていた。行為者や客体ではなくて、その行為・動きそのものに焦点を当てる際の表現だと。

引用します。

Oft werden dabei berühmte Gebäude aus aller Welt detailgetreu nachgebaut.

しばしばそこでは世界中の有名な建物が、細かいところまで忠実に模して造られる。

作者や建築家ではなく、「造られていること」そのものを表すことになる。

 

DWのlangsam gesprochene Nachrichten を聴く

主題や大枠そのものを理解できない記事が結構あった印象。この場合

  1. 自分の知識そのものが不足しているケース
  2. コトバの力が不足しているケース

この二つが挙げられるが、どちらかと言うと、1.のケースだなという気がした。もし仮に日本語訳されたものを聴いたとしても、よく分からない感覚を覚えるのだろう。主に欧州でのニュース。日本のメディアが取り上げないようなニュース。そういうものも報じられて当然で、それをこそ聴き取れて理解できればよいのだが。2.を養っていくのは自明としても、その後押しという観点で1.にも明るくありたい、と改めて思い至る。

 

準一級対策本に取り組む

巻末の熟語集に「身体の部位をつかった表現集」が収載されている。けっこうこういうものが好きなのである。日本語でも散見される。

  • 脚が棒になる(脚が棒へと変化するという非現実的なことが起こるわけではない)
  • 目をつむる(目を閉じるわけではない)
  • 耳が痛い(実際に耳が痛いということではない)
  • すねを齧る(実際に人のすねを齧るのではない)

これに類するドイツ語があるのかないのか、あるのならどのように表現するのか、どの程度の違いがあるのか、に着目していきたい。