『はじめてのラテン語』を読了して
一冊の本をまた読み終えました。
過去一度記事にしました。これから読んでいきます、のような意気込みを述べたものでした。
予備知識皆無の状態でも読める入門書でした。しかしながら、悲しいかな、入門書というのはその分野の扉を指し示してくれるという点で大変有り難いのですが、そこから先に進むには自らの意志や勇気、気概や根気が必要になってくるのです。その大きな全体像を目にして畏怖し、その後は読者それぞれの志に委ねられている。
読み終えて何が見えたか? 何が分かったか?
ドイツ語とも違う、当然日本語とも違う世界が広がっていました。一読しただけなのでラテン語の扉を見つけて、ドアノブに手をかけて、ひねり、開けたか開けてないか、そんな状況です。
3つの点を書き留めておこうと思います。
1. ラテン語はロマンス語の源流のようですね。ゲルマン語とは一線を画す。ドイツ語との連関がもっとあるのかな、と期待していましたが、甘かったようです。フランス語やイタリア語を学んでいる人なら「親近感」を得られるのかも。
2. 「膠着語」というのがあることを知りました。1つの単語自体に文法的機能が、膠(にかわ)でくっつけるかのように組み込まれている。
- cōgitō, ergo sum.
有名なデカルトの言葉「我思う、ゆえに我あり」は分析的には
- cōgitō ←この一単語だけで「私は考える」
- ergo ← 接続詞「それゆえに」
- sum ← 「私はある」 sumは基本的にはbe動詞と同じように捉えてよいとのこと
3. ラテン語と私はどのように接していくべきか? あるいはどうしたいか?
時間が無限にあれば、より近づいていくことができそうなのですが。当面はドイツ語に専心する所存です。
- 現在の自分との距離感
- 意欲やモチベーション
そのあたりを考量しての判断です。ラテン語の魅力を探求するのもいいのですが、今はやはりドイツ語への希求が上回る。ドイツ語にばかりエネルギーを注ぐことに弊害が無いわけではないだろうけれど、この自分の手に馴染む感触*1がたまらないのです。
ラテン語に目覚めた暁には、「あるラテン語学習者の断想」が開始されるのだろうと思います。
*1:勝手にそう思い込んでいる