ドイツ語と握手をする
今日「ドイツ語と何をしたか」? それを見ていきます。
朝、通勤中
- NHKラジオ第二『まいにちドイツ語』応用編、を聴く。話法(批評)の副詞を知る。話者の主観的心情(気持ち)を表す副詞のことをこう呼ぶとのこと。今回はam bestenが取り上げられていた。他にも探してみよう。
- ラジオ、AnttenaNiedersachsen、特にSchlagerのチャンネルを視聴。Schlagerは一言で言えば、ヒット曲。「叩く(ヒットした)もの」。流行歌。広く大衆に(ドイツにて)受け入れられる曲。ただし、数年後、数十年後にまで残る曲かどうかは分からない*1。その点ではいわゆる消費される音楽なのか? 揶揄される場合のJ-pop的位置づけなのか?
暮らしの中にドイツ語を少しずつ溶け込ませる
- 仕事上の簡易なメモや自分のPC上のフォルダ名はドイツ語で。可能な範囲で。仕事に支障をきたさないことが大前提。
- 「Todoist」を課金して愛用中。これの設定をドイツ語にしている。
- iPhoneの言語設定はドイツ語。
- *「理想は」ドイツ語で日記をつけること。そう言えば、下のような本を持っています。学習開始初期に着手してみたのだけれど、当時はほぼ手も足も出なかったなあ。もう一度読み返してみようかな。
-
*1:そんなニュアンスを感じる
2つの取り組み:最近のドイツ語学習事情を眺めて
主だったところで以下2つにトライします。*1
- 愛用しているiPhoneの言語設定をドイツ語にした*2。実は今までも何度か取り組んだが、実力不足のためか、一定期間経つと母国語に戻す始末。「iPhoneに接しているだけで自然とドイツ語に慣れ親しんでいくことができる」というのが狙いだが、果たして!?
- ドイツ語について何を学んだか、どのようなアプローチをどれだけやったかを日々記録してみる。狙いはその日の学習内容の定着とこれから何をすべきかを導き出すこと。日々記事化して公開するか否か、や、公開の仕方は別途考えてみたい。
焦らず怠らず*3
目先の具体的な目標は独検準1級合格ということになります。今年の12月に受験するのはほぼ確実なのですが、そこにばかりフォーカスしないようにしたいのです。*4真の目標はそこではなく、もっと長期的で俯瞰的なもの。仕事や家族生活といった基礎的本質的な営為をこそ大切にしたい。それあってのドイツ語学習だと思い至っています。上手くバランスをとってドイツ語と「戯れて」いきたいところです。
『まいにちドイツ語』を聴いて/2つの「読む」?
今日も引用から。
Bücher zu lesen ist schon wichtig aber...
Trauben zu lesen ist viel wichtiger!
(本を読むことはそりゃあ大切、でも…
ぶどうを摘み取ることのほうがもっと大切さ!)*1
2つのlesen
入門編だからと言って学びがない、などと思った自分を恥じています。
この下のほうのlesenは知りませんでした。
もちろん上のlesen は英語のread に相当します。
独独辞典を当たっておくと
etwas Geschriebenes ansehen und seinen Inhalt erfassen
(書かれている何かを注視して、その中身を把握すること)とあります。なるほど。
下のlesen は綴りは同じですが、別の意味*2で、
- ぶどうなどの果物、フルーツを植物から、摘み取る
ということらしいのです。
- Trauben lesen ぶどうを収穫する
語源が気になる
- なぜlesen なのか?
- 何か関連性があるのか?
- 偶然か?
- もしかしたら語源や由来が同じなのか?
と言葉へのロマンが溢れてきます。*3
あくまで推論・空想ですが
読むことも摘むことも、「ある対象に対して集中する行為」であり、まさにその中身を自分の側へ取り込む(読み込んだり、摘み取ったりする)営為であることが分かります。
そういうことだと半ばこじつけつつ「読んで」おくことにします。
『まいにちドイツ語』Montag, 11 Juni
今日も抜き書きから。今日は分量的にはわずか3文ですが。
Haben Sie Lust, bei mir zu lernen?
(私のところで勉強する気はありますか?)
やる気とは?
Lust は女性名詞。「気持ち、やる気」
独独辞典を見てみましょう。
Inneres Bedürfnis, etw. Bestimmes zu tun, haben zu wollen
(内なる欲求。やりたいことの決意*1)
とのこと。他者から強いられたのではなく、自分自身の内側からこみ上げる意欲のようなものですね。
よくモチベーションというのが取り沙汰されます。自分のそれを自分でコントロールできる人は強いのかな、と思います。そうありたいものです。
*1:ちょっと訳があやしいです
『しっかり身につくドイツ語トレーニングブック』にしっかり向き合う
CD BOOK しっかり身につくドイツ語トレーニングブック (CD BOOK―Basic Language Learning Series)
- 作者: 森泉
- 出版社/メーカー: ベレ出版
- 発売日: 2006/04/01
- メディア: 単行本
- 購入: 3人 クリック: 63回
- この商品を含むブログ (13件) を見る
これに再び取り組んでいます。表紙には
- 書いて覚えるので忘れない
- 練習問題を通じて体系的に文法がわかる
- この1冊で初級者に必要な頻出単語が身につく
とあります。王道的な参考書(問題集)だと思います。わかりやすくて網羅的。400ページとボリューム十分!
実は独検2級を受験する前にこれを全てやり終えようとしたのですが、3分の2程度しか進められませんでした*1。そしてその後ほぼそのまま放置という体たらく。
独検準1級合格へのステップを考えてみて、やはりこれはやり終えておきたいなと思う次第です。
最近の自分の具体的な学習「行為・動作」を確認しますと
- 読む
- 聴く
というのは通勤中に、少しずつではありますが、やれていることだと気づきます。しかし、
- 書く
というのは机の上でないと出来ない(やりにくい)ため圧倒的に欠落していると分かります。「書くことで覚える」のだとしたら、その行為が抜け落ちてしまっては定着しにくくなると思わざるを得ません。
ということで日々少しずつでも進めていくことにします。*2
なぜドイツ語を学ぶのか04
なぜドイツ語を学ぶのか03
https://cheapeer.hatenablog.com/entry/2018/05/25/194944
この続きを書いておこうと思います。
趣味をずらすとは何でしょうか?
私だけではなく多くの人の趣味。それは読書です。
ある年には年間100冊程を読んでみたのですが、分かったことが2つあります。*1
- 自分の好みの本を手に取りがち
- 多くの本は別の本の再解釈に過ぎない
1.に関して、考え方や目的にもよるのですが、好みの本ばかりを読むことにより、逆に視野が狭くなっていくような感覚を持ちました。本を手に取るという行為そのものが恣意的なのです。それでもいいのかもしれませんが、何というか、これでは自分は満たされないな、本末転倒なのかもな、という気づきがありました。
2.については、つくづく感じます。言うまでもないことですが、
- 歴史の風雪に耐えてきた書物と
- そうではなくただ単に消費されていく本
というのがあります。後者の本は古典の子供や孫に過ぎないという気がします。このことは消費される本の批判ではなくむしろ礼賛です。そういった本があるからこそ、風雪に耐えうる古典を知るきっかけにもなるのですから。
閑話休題
読書が好きなのに、上滑り感というか、違和感というか、ボタンの掛け違いというか、そんな緩やかな危機感を覚えた私は、言語そのものをずらそうと思い至りました。
- 日本語に訳されたものではなく、その言語のまま読んでみよう
- 英語は義務教育である程度触れてきたから除外しよう*2
- 自分の読んできた海外作家・著者を思い巡らしてみて、やはり気になるのはドイツ語圏の人々
という理路でドイツ語を学ぶことになった。そういうことです。
『まいにちドイツ語』を聴いて/言語に流れる血を感じたい
いつものように今日の放送から引用します。
Die sitzende Vairocana-Buddhafigur wurde nicht nur aus Staatsgeldern, sondern auch aus Spendengeldern finanziert.
(盧舎那仏の坐像の資金は、国のお金だけでなく、寄付によっても賄われた)
英語のnot only ... but also... ですね。
決まり文句
決まり文句、イディオム、諺の類がもちろんドイツ語にもあって、「こう来たらこう」、「こんな場合は決まってこう」という相関があります。
諺そのものが好きなので、ドイツ語のそれにも興味があります。諺はその言語を使う民族の血が通っているかのようで、大変味わい深いです。
- Eile mit Weile 急がば回れ
- Lügen haben kurze Beine. 嘘はすぐばれる*1
- Man soll den Tag nicht vor dem Abend loben. 一寸先は闇*2
- Auf Regen folgt Sonnenschein. 苦あれば楽あり*3
日本語の諺にぴったり対応するもの、そうでないもの、強いて言えば「これ」に対置できるというようなもの、はたまた実はドイツ語の諺が元祖で、それが輸入されたもの、もありそうです。
歴史的、地理的に全く連関しない言語でありながら、同じような、似たような諺が生まれているとしたら、そこに人間性や人間社会の本質を見出せるような気もします。