ある多言語学習者の断想

ohne Fleiß kein Preis.

何かを書くということは、書かなかった何かを考えることだ。

ドイツ語に限らない話をします。日曜*1ですし。

 

ドイツ語にせよ日本語にせよ人は何かを書き表します。

  • 国体が揺らいでいます。
  • 独裁者が私腹を肥やしています。
  • そのローラーボールペンのインクの色が綺麗です。
  • 今日は20キロメートル歩きました。
  • あの人たちはその人たちを差別します。
  • なぜ何も無いのではなく存在するのか。
  • パンケーキ食べたい。
  • 知識など増えない。頭の中に仮説が増えるだけ。
  • 動物園でゾウの赤ちゃんが産まれました。

 

森羅万象ありますが、それらの中から人は言葉という網で掬い上げます。あるいは鋏で切り取ります。その手の届く範囲で掴み取ります。知ったことを「知」として認める。

 

その時、何が起こっているのでしょうか。

何かを言い表したとき、言い表せていない別の何かを、頭の片隅で考えることになるような気がしています。というよりもそういう意識を私は持ちたい。

 

あるAを認識する。その時に別の何かとしてのBが現れる。厳密には自分には*2出現はしていないが、出現の可能性が生起する。

  • 「きっとこういうこともありえるのだろうな」
  • 「そうではないことにもなりうるのだろうな」

そういううっすらとした意識の足跡を見る。その残り香に触れる。

 

何かを捕まえること*3が、別の何かの存在を気づかせてくれます。

 

陰の概念が無いと、光は光として存在出来ない。暗いところがあるから、明るいところがある。悲劇が喜劇を教えてくれる。その逆も然り。

 

この記事のタイトルはパラドキシカルですが、そういうことだと今、信じています。

何かを知れば知るほど、知らない何かの存在を知り、謙虚になる*4。そういうことです。

*1:いつものニュースが更新されないので

*2:まだ

*3:書くこと

*4:というか謙虚にならざるを得ない。多くの学者、研究者がそうであるように経験・知見を積めば積むほど、横柄な人はいなくなる、と私は見ています。