ある多言語学習者の断想

ohne Fleiß kein Preis.

難しい! その時に (読むことの困難さと面白さ)

  • 日本語にならない
  • 日本語になったとしてもぎこちなくなる
  • 日本語にはなったとしても内実が分からない

日々、ドイツ語ニュースを「読む」*1というのを続けている中で、上のようなことに出くわします。

平たく言うと、「難しい」ということなのですが、これの要因を探ってみます。

以下3つを挙げます。

  1. 語彙力が無い
  2. 文法の理解が浅い
  3. コンテンツそのものに対する理解不足・知識不足

このこと*2はドイツ語に限らず、英語、日本語といった言語を問わず*3、読むことに際して関わる事案です。

 

語彙力が無い

言葉の意味が分からないため、理解できない。分からない。これは語彙力の増強が要求されています。日々辞書とにらめっこをしています。単語を覚える。ただそう単純な話でもなさそうです。

日本人の言う「犬」とドイツ人の言う「犬」はちょっと違う気がします。言葉の意味は同じでも、それに対する位置付けに違いがある。いわば意味の意味、言葉が有するその文化的意味に違いがある。そこを一つ一つ味わっていくという喜びもありそうです。

 

文法の理解が浅い

あるいは、文法の知識不足・理解欠如。母国語ならば、それを意識せずに読解可能です。しかし外国語となるとそうはいきません。

「読み」のための文法。そういうものがあると痛感します。文や文章の「システム」を司るものとしての文法。生命体にたとえるなら、神経やホルモンや遺伝子のようなもの。そのような捉え方で文法を見ていくと非常に面白くなってきます。

 

コンテンツそのものに対する理解不足・知識不足

特に今、私が取り組んでいるのはニュースの読解です。何か新しいことを伝えているのがニュースなのだと言えますが、実はそこにはストーリーが存在していることに気づきます。過去からのつながり、歴史的経緯。そういうものをある程度前提にしつつ、ニュースが報道される。

その国、地域の地理や政情、文化をある程度知っていることが要求されます。このことは日本語のニュースを読む場合でも同じでしょう。日本人が読む日本についての日本語のニュースでも難解なものがある。

 

日々自分の不勉強を思い知ることになります。それは何もドイツ語の勉強が足りないということだけではなくて、この現代社会についての視座というか、自分なりの見識が狭いことの証だと思っています。

 

楽観的な見方を一つ。私は今年で40歳になるのですが、年の功で知識そのものは増え続けていると感じます。10代、20代の頃には到達できなかったものに手をかけている感覚があります*4

このコンテンツの問題は加齢、年齢の重ね方が鍵なのかもしれません。

 

また明日から続けてみます。継続だけが人生ではないですし、それが幸福なのかは分かりません*5。しかしながら、自分の中には「そうした方が面白くなるのだろうな」という確信に限りなく近い憶測があります。あと、完璧主義を捨ててダサくても不細工でも毎日更新することにこだわっています。

*1:見出しだけは日本語に訳す

*2:特に1.と3.について

*3:私の今の射程はこの三言語のみとなります。無論、日本語が最も得意です

*4:もちろん忘却という問題はありますね

*5:誰にも