ある多言語学習者の断想

ohne Fleiß kein Preis.

今日のドイツ語学習 19.8.2018

Dw の langsam gesprochene Nachrichten を聴く

メルケル首相がいつもの画像に出ていたので、彼女が登場するんだなということを想像しながら聴く。

予想通りドイツ政治について、取り上げられていたが、それに加えて、ブラジルの大統領選についても報じられていた。恥ずかしながら、これを聴くことでようやくこのニュースを知った。このことは日本がブラジルのニュースを報道していないことを意味するのではなくて*1、単に私が新聞を読んでおらず、その方向へ意識を向けていないだけのことだと自省している。

地球の裏側の出来事がこの島国にどう影響するか。未来予測者はきっとこういうことも加味しているのだろう。

 

接続法が分かりつつある

苦手にしていた接続法*2についてようやく分かってきたような気がする。理解が進んだと思える。

独検準1級対策を中心に取り組んでいる昨今だが、文法問題ではなく長文問題、上記のニュースに接する中で、納得感・手ごたえを得ることが増えてきた*3。実際の文章、生きた文脈の中で「こういう風に使われるのだな」と体感する。

 

“これが分かりません”

分からないことを予め分かっておくこと、つまり自分自身が「ある部分について理解していない」ことを認識しておくこと、が結構大切なのかもしれないと思えてくる。これが第一歩。何が分かっていて、何が分からないか、について意識するのは簡単そうで難しい。分からないことの理由だって千差万別だろうし。

 

「分からないコトやモノ」そういう課題を頭と心に保持しつつ、学習や体験を積んでいく。やがて「あ、これ前は分からなかったけれど、最近分かってきたやつだ」へと移り変わっていく。

  • 課題の明確化とその解消、解決。

これが学びにおける喜び・醍醐味の一つなのかもしれない。

*1:※後ほどこの記事を見返して、脱字があったので補足。見返しましょう、という自戒

*2:文法の一要素。英語で言うと仮定法、でしたか

*3:文法が分からないから文法問題をやる。実はこれが適切ではなかったのかもしれない。これに限らずこの手のことは多いかもしれない。セレンディピティの話にも通ずる。