ある多言語学習者の断想

ohne Fleiß kein Preis.

今日のドイツ語的あゆみ 5.8.2018

Langsam gesprochene Nachrichten を聴く

これを聴くようにしてから5日目。

一方でドイツ語を学び始めて1380日が経過。およそ3年半。ドイツ人としては3歳くらいだろうか? いや日本に住んでいて日常生活では日本語を使っているのだからドイツ人の3歳よりも圧倒的にドイツ語に触れていない。3歳のドイツ語能力には満たないのか?

 

聴力は知力ではなく筋力なのか

家にあった、ほこりをかぶった英語の学習方法についての本を取り出して少し読む。リスニングの項目で、

  • リスニングは知力ではなく筋力である

のような文言を見つけてハッとした。きっとドイツ語も同じだろう。納得感がある。聴かないと衰えるし、知能でどうこうして養っていく類のものではない、と著者は言う。まさに「動かす」というトレーニングを経て身につくものだと気づく。*1

毎日聴いて損はなさそうだし、そうすることこそが効果を発揮すると信じる。

 

単語そのものを学ぶということ

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文章の中にあってこそのコトバ(単語)、というのには確かに頷ける。しかし、その文章を読むこと(聴くこと)への準備としてやはり単語を知っていることが要求されていると思えてくる。

  • 文章・テクストが先か:文章を読んで、出くわした分からない単語を覚える
  • 単語が先か:単語を頭に入れた上で、文章を読んでいく

前者は前者で大切だろうが、何というかトップダウン的な手法のため苦しくなることもある。分からない単語は飛ばして読みましょう、という指導がよくなされるが、分からない単語が多すぎる場合、特に苦痛。

後者はというと、単調であり、その単語を覚えることの意義みたいなものが見出せなくなる懸念がある。ボトムアップ的手法ではあるが、統合したり、応用したりする必要が出てきそう。

タマゴが先かニワトリが先か的問題とも言えなくないが、ドイツ語学習としての結論としては両方平行してやるのが良さそう。

単語を学ぶ際に、

  • 例文を自分で作るという手法

も受け売りだが、良さそう。やってみたい。とりわけ頭に入りにくいものについて。

 

あと、

  • 特に男性は木を見て森を見ずになりがち

というのを読んだことがある。

自分のことを指摘されているような気さえした。ある一つの単語が気になって、文章全体をとらえることができなくなったり、リスニングにおいてはその語以後の内容が入らなくなるようなケース。

日本語なら多少分からない言葉や箇所があっても、総合的に見て何とかなることのほうが多い。それと同じような水準が理想。

 

 

*1:ここで連想したのは、ライザップが英会話事業にも着手したこと。構造的に似ている