『素朴なぎもんからわかるドイツ文法』と疑問という名の冒険
今日は好きな本を取り上げましょう。2015年頃着手した記録があります*1。
ドイツ語にせよ、別の言語にせよ、何か新しい分野に接する時、人は何らかの疑問を抱きます。
- なぜこうなっているのか?
- なぜこのようなルールがあるのか?
- どのような仕組みで成立しているのか?
- どこまでが整理された仕組みで、どこからが仕組みや理論の無い領域なのか?
ドイツ語を学んでいて、「何でこうなるの?」と思うことはしばしばあります。日本語の言語システムとは違うのだから当然かもしれません。この疑問を一つひとつ解き明かすのが学習だとしたら、これはもはや冒険と言えるかもしれない。
接続法って結局何ですか? 概略をつかむ
文法書やドイツ語入門書の後半に突如現れるこの項目。また来たな! ってなります。この機にこれをまとめてみます。
まず直説法
Peter ist krank.
「ペーターは病気である」(事実)
まず対比のための例示。これは接続法ではなくて、フツーの文です。直説法と呼ぶ。事実そのものを述べています。話者つまりペーターでは無い誰かが、そう認識して言っている。
この状況を具に想像すると、「話者はペーターが青白い顔をして、病院のベッドで寝込んでいるその場に居合わせている」といったところでしょうか。
接続法1式
Peter sei krank
「ペーターが病気であると」(事実かどうかは関知せず)
これが接続法第1式。よく見ると、ピリオドが無い。つまり、文章はこれだけでは完結せず、「と」と接続する機能を持っている。だから接続法と呼ばれる、と本書には解説がありました。納得。人から聞いた話を伝えようとするような場合に使われる。
つまりこの状況においては「話者はペーターの今の状況をよく知らない。少なくとも直接会っているわけではない」ということだと見なせます。それ故に間接話法で用いられる。
接続法2式
Peter wäre krank
「ペーターが病気であると」(事実では無いが、つまり「ペーターは病気じゃないけどね」)
これが接続法第2式。これも上と同様に、ピリオドはありません。文は完結しておらず、接続していきます。事実ではないことを話者は知っていて、それでも事実でないことを述べる場合の表現ということになりますね。文学の香りがしてきます。
この場面を想像するに、「話者はペーターがバック転を何回もしている場面に居合わせており、健康そのものだと認識している。その上での発言」ということかなと。
例文
Die Freunde sagen, Peter habe viel Geld.
「(事実かは知らないが)ペーターがお金をたくさん持っていると、友人たちは言う」
これが接続法第1式による間接話法。このhabeの中に接続詞の「と」がすでに入っているのでdass *2は不要という解説にも納得。クエスト達成!
Wenn Peter viel Geld hätte, könnte er ein Auto kaufen.
「(事実ではないが)もしもペーターがお金をたくさん持っているとすれば、車が買えるだろうに」
これが接続法第2式による非現実話法。ペーターはたくさんのお金を持っていないから、車を買うことはできない、そのことの別の言い方。
非現実的な表現でもって、結果的に事実を強調的に言っているという気もします。
ここまで見てきて感じたこと
この「事実でないことをしっかり区別して述べる方法が、使用言語にすでにプログラミングされているドイツ語」。これを日々用いてものを考えているドイツ語話者。このことを踏まえると
- 事実と夢を、現実と想像を明瞭に区別する民族性を有しているのではないか
- 事実や現象を重んじる科学や技術の分野において、相対的に優れている理由の一つなのではないか
というゆるい仮説を立てている自分がいます。
ただし、このこともまた、別言語の概況を学ぶなり、調べるなりしないと立証されませんね。