ある多言語学習者の断想

ohne Fleiß kein Preis.

遅すぎるということはない

この記事の結論を最初に申し上げておきましょう。

年齢なんか気にせずにやりたいことをやろう。

以上です。

 

 

何かを学ぼうとする時に、それを回避する言い訳として、

  1. 仕事が忙しいからできない(続けられなくなった)
  2. 頭が固くなっているから勉強しても意味がない(だからやらない)
  3. 別にそんなことをやる必要はない(他にやるべきことがある)

そういう台詞が持ち出されるのではないでしょうか。かく言う私も色々なものやことに対して言い訳を作り、その場から去ったことがあります。それらの全てが後ろ向きなわけではなく、建設的なものもあったのも事実ではありますが。

 

さて、私は一定期間、ドイツ語を勉強しているわけですが、「始めるのが遅かった」と思うことがありました。

30代半ばまでドイツ語に接したことなどありませんでした。興味のままに勉強を始め、そしてそれを続けて今日に至る、と。残り少ない30代も、そしてもうすぐ到来する40代もドイツ語を学び続けることでしょう。

 

上の3点について私の見解を申し上げましょう。

1.については、確かに忙しいけれども、それ以上に自分にとって必要だからやってしまう。

 

2.については、やりたいことというのが大前提なので、結果や成果、効果、ひいては自分のキャリアや収入の観点とは別ととらえている。勉強そのものも目的の1つなので、この問いは自分へのやらない言い訳にはならない。また「ものにできなくてもいい」という所がある。そもそも頭が固いかどうかもやってみないと分からない。固かろうが、柔らかろうが、関係ない。

確かに大学入試の段階でドイツ語学科などのような所を選択する方法もあったかも知れません。そうすれば、ドイツ語を活かした仕事、人生を送っていたかもしれない。しかし18歳そこそこの私にはそういう選択肢は浮かばなかった。*1

 

3.に関しては、その通りで、いつ辞めてもいいとも言える。

いつ辞めてもいいことが、かえって持続に繋がっている気もする。

ドイツ語は簡単な言語では無いと言われています。*2 だからこそ登り甲斐がある。私にとっては大いなる山なのです。「そこに山があるから」登る。そういうことかもしれない。

 

例えばもし明日自分の命が消えるとしても、いつもと同じようにドイツ語の本を開くのだろうと思います。

 

城 (新潮文庫)

城 (新潮文庫)

 



*1:そう言えば、内田樹氏がある書物で語っていましたが、知的成長とか、知の駆動というのは個人差があっていつ開花するか分からないものだと。私が30代半ばでドイツ語を勉強しようと思い至ったことがその開花なのかどうか、よく分からない前提で言いますが、確かに10代のマインドとは違う自分の内面があります。

*2:日本人が学ぶ場合という観点で