ある多言語学習者の断想

ohne Fleiß kein Preis.

なぜドイツ語を学ぶのか02

 唐突ですが、あなたにとって日本語とは何でしょうか?

日常的に運用しているかけがえのないものでありながら、そのこと自体を感じない、そのようなものかもしれません。

当たり前で、自明で、あえて意識することのないものかもしれません。*1

 

もし日本語が無かったら?

言葉を使って人は思考します。「言語の限界が思考の限界だ」というようなことを、ある哲学者*2が言いましたね。日本人の私は基本的には日本語で物事を捉え、考え、表します。

なぜドイツ語を学ぶのか02の答えはこれです。

日本語*3という言語にしばられずに物事を考えたいと思ったからです。

私は日本人です*4。日本人であるがゆえに、無意識のうちに思考を決定づけている事項、思考の癖、大枠、大前提というものを常に既に抱えているのだと思います。それを飛び越えて、自由になれたら、と。そしてそれが可能なのか、その「人体実験」*5という観点でも私はドイツ語を学んでいく次第です。

 

※投稿後の追記※

上記の理路や回答だけでは

  • 「ドイツ語」を学ぶ必然性には答えられていない

ことに気づきました。なぜ外国語を学ぶのか?という問いへの回答ならば、上手くフィットしますが、その場合、別にドイツ語でなくともよくて、アラビア語でも、スペイン語でも、スワヒリ語でも、エスペラント語でも、ラテン語でもよかった、ことになります。考え方によってはコンピュータ言語でもよかった*6

なぜドイツ語を学ぶのか、については複数の回答が自分の中で成立しています。それを01や本記事の02のように、断片的に、断想的に綴っていく方針。1つの記事だけでは、分析的な回答になるケースもしばしばだということを予言しておきます。

論理哲学論考 (岩波文庫)

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*1:ただ、このブログを読んでいる方は、同時にブログの書き手であるかもしれません。ブログを運営していなくとも、書くことが生活の一部という人もいそうです。ともかく、書くことはそのツールである言語を意識させますよね

*2:ウィトゲンシュタイン Ludwig Wittgenstein

*3:および義務教育としての英語

*4:日本語で書かれたこれをお読みになっているあなたもきっと

*5:もっといい表現がありそうですが

*6:これはどうかな?